九州から始まった弥生文化は、渡来人の遺伝子とともに東進・北上しました。
縄文時代一色だった本州日本は、グラデーション状に徐々に新たな姿を見せていきます。
そんな中、北海道では弥生の稲作農耕文化を拒み、縄文の狩猟採集文化を発展させました。
これを〝続縄文文化〟と言います。
弥生文化の遺跡の北限は青森県弘前市
何を以て弥生文化とするかに議論の余地はありますが、一般に水田が見つかれば弥生文化ですね。
弘前市の砂沢遺跡は、水田を備えています。弥生前期末です。
水田を基準にするなら、見つかった中でこれが最北の弥生遺跡です。
なお、弘前市は青森県の最北部ってわけじゃないので(むしろ南だと思う)、本州でも最北部は弥生文化を受容しなかったと言えるはず。
(少なくとも稲作は需要しなかったようです。)
しかし、砂沢遺跡の土器を見てみると、お馴染みのつるっとした弥生土器ではありません。
土器の文様や技術に縄文が受け継がれています。
呪術具や祭祀具を見ても、縄文の習俗が残っているのがわかります。
縄文文化を色濃く残しながら、南で流行りの弥生を取り入れてみた、って感じですね。
弥生文化の渡来は、〝縄文VS弥生〟みたいなわかりやすいものじゃなく、文化の担い手もごそっと入れ替わったわけじゃないのです。
弥生文化の北上が止まった理由
では、何故弘前市で止まったのか。
言い換えると、なんでもっと北の人たちは、南の流行を取り入れなかったのか。
北の人たちが単純に特別頑固だったとは考えにくいですね。
縄文時代においては、青森も道南も同じ〝津軽海峡文化圏〟です。
海を越えた共通文化圏だったのです。
担う文化が同じなら、担い手にもそれなりの共通性があると考える方が自然ではないですか。
実際、鉄器文化は受け入れているのです。
縄文時代と続縄文時代の大きな違いとして、鉄器の有無が一つに挙げられます。
でも稲作農耕は受け入れなかった。
瀬川拓郎氏は、寒い土地で無理して稲作農耕を受け入れるより、狩猟で得た毛皮で本州と交易する道を選んだのではと主張しています(参考:『アイヌと縄文―もうひとつの日本の歴史』)。
つまり商業的な狩猟採集の選択です。
ヒグマの毛皮は本州の文化で、つよいひとの権威と結びついていたようです。
これは北海道の武器ですよ。
受容できなかったのではなく、選択的にしなかったのです。
もっと良い手段があったからです。
無理して猿真似より個性を活かせ! みたいな感じ?
北海道の人たちはこれによって、狩猟採集文化を継承しながらも、単なる自給自足から商品経済に移行したとも取れますね。
そこに生まれるのが階層化です。
縄文時代と違い、続縄文時代では、豪華な副葬品を埋めているような特別なお墓が出てくるそうです。
本州で取れる琥珀とかの宝物が、毛皮の対価として入ってきて、首長の権威の象徴になっていたのですね。
ただ、ヒグマは本州に生息していません。
弘前より北に弥生遺跡が見つかっていないのは気になります。
まあ、遺跡は開発の過程で見つかる傾向にあるので、都市化がゆるい場所だと少ないんですよね。
単純に弥生遺跡が見つかっていないだけ、って可能性もあります。
正確な北限とか南限というのは、あまり意識しない方が良いかもしれません。
もちろん、ヒグマはいなくても気候は寒いので、やっぱり狩猟採集に特化した可能性もあります。
続縄文文化の南下と古墳文化との交流
弥生文化は弘前市(付近)で止まった。
それより北の人たちは、稲作農耕に乗り遅れ、豊かな生活を逃してしまった可哀想な未開人なのだ!
だが少し遅れたとしても、より高度な文明人にいずれは吸収され、未開の地は発展していく――。
……なんて直線的な発展文化論で見ていると、見逃してしまう事実が色々とあります。
例えば、弘前市の砂沢遺跡は、弥生前期末でした。
最北の遺跡が〝前期〟の末なのです。
じゃあ後期以降はどうなったのかって話ですよね。
実は弥生後期になると、北東北の人口密度が希薄化して、稲作農耕が行われなくなったそうです。
気候の寒冷化が原因だとか。
その分狩猟採集に戻り、その空白地帯に、北海道の人たちも南下してきます。
そのまま南は古墳時代に突入しますが、仙台平野とか新潟平野が、古墳文化の前線だったそうですよ。
で、別に古墳文化と戦いに来たわけではなくて、この辺の前線地帯に続縄文人も入り混じり、やっぱり交易や交流を行ったわけです。
イメージとしては、砦とか建てて隣国を警戒する排他的な国境じゃなくて、隣国の人たちが出入りしあって交易都市が栄える国境みたいな。
しかしこの交易的な中間地帯にしても、固定的だったわけではありません。
また温暖になってきたのが関係するのか、それともヤマト王権が強大化してきたとかも関係するのか。
五世紀後半くらいに、古墳文化が北上してくるんですね。
ほら、五世紀って言ったら、日本最大と言われる「仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)」とかの時期ですもんね。
つよつよでフィーバーしていたんですよ。
で、岩手くらいまで来ちゃった。
古墳文化の北上と続縄文文化の撤退
岩手県奥州市には続縄文文化の集落跡があります。
中半入遺跡(なかはんにゅういせき)です。
しかしここには、前方後円墳(角塚古墳)もあるそうです。
最北の前方後円墳ですね。
岩手ですから、前方後円墳があると言えど、続縄文人もだいぶ粘って南下を保ったのが見て取れます。
奥州市は岩手でも南の方ですし。
と言っても、6世紀には北海道まで撤退してしまいました。
青森県七戸町の森ヶ沢遺跡(もりがさわいせき)を見るとわかります。
五世紀には続縄文人のお墓がたくさん見られるのに、六世紀には古墳社会の人たちに取って代わられているのです。
ここは、続縄文人の土器とかもありながら、大阪の陶邑(すえむら)産の須恵器などが出ている遺跡。
「二ツ森貝塚館」で学びましたね!
こうして古墳文化が北上し、続縄文文化とは津軽海峡で分かたれるようになったと考えて良さそうです。
勝ったとか負けたとかではなく、地域で入り混じるグラデーションな交易方式から、北海道と本州に分かれて船で交易する形に変わったんですね。
続縄文文化と世界遺産
ここでまとめておきます。
稲作農耕を受け入れた弥生文化と、狩猟採集に特化した続縄文文化は、それぞれの土地の利点を活かし、権威に結び付く特産物を交易でやり取りしていた。
気候の変化を背景に、その中間地帯は一度仙台・新潟辺りまで南下するが、古墳文化の強まりとともに再び北上した。
最終的に、北海道と本州に分かれて、船で交易するようになった。
こんな感じ。
世界遺産的に、続縄文文化は、それ自体がテーマになっているわけじゃないです。
ただ、津軽海峡の縄文文化を代表する『北海道・北東北の縄文遺跡群』の分かちがたい後継者であり、また、『百舌鳥・古市古墳群』に代表される古墳文化ともお互いに欠かせない存在でした。
後者に関して、タイトルは「せめぎあい」としましたが、これは南進北進を行き来する状況に対して形容したものです。
実際にはバチバチと押し合いへし合いやっていたわけではないので、少々現実とは違う表現になってしまったかもしれませんが……意識しあう関係だったとは思います。
その点で、〝続縄文〟をキーワードに見てみると、それぞれまた違った顔が見えてくるのではないでしょうか。
そう思って気にしていた続縄文文化でしたが、ここで〝アイヌと縄文〟をキーワードに触れることになり、少々頭を整理してみた。
それがこの記事の目的です。
脳内整理です。
だいぶ果たされたと思います。
どうせ整理するなら、みんなで一緒にやれると良いよね。
参考文献
瀬川拓郎『アイヌと縄文―もうひとつの日本の歴史』(2016年、ちくま新書)
本州南部の海民と縄文人との関係など含め、色々と面白い視点が詰まっています。
この記事は主に、この本が参考です。
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